▼公開対談 喜納昌吉×柳瀬宏秀
対談『祭りの魂を取り戻すために』
1999年2月13日(青い宇宙の猿)大阪 モモの家にて


柳瀬< さきほど生体のリズム、宇宙のリズムを取り戻すためのダイアリーだっていうお話をさせていただいたのですけれども。例えば、農業をしていて、草を見て、虫を見て、時に祈ってそして収穫できる。そうすると、収穫できたときに、収穫できた野菜が、米が、大地のおかげであり、太陽のおかげであり、あるいは隣人のおかげであったりという、すべてがつながっているという感覚を本来持つことになると思うんです。

すべてがつながっているという感覚を、感謝というように言い表して、神社みたいなエネルギーの強いところで感謝祭みたいなことをしていくという。そういう1年を過ごすと、草を見ていれば草の裏に何かを見るだろうし、虫の動きの中に何かを見る。例えば“虫の知らせ”みたいな言葉が生まれるように、虫が語りかけるものを何か感じたりする。そして収穫できれば、当然、それはあたりまえのことなんだけど、大地のおかげであったり、いろんなことがつながって収穫できた、という感覚を持つのが人間だと思うんです。
そして、1年間が過ぎると、螺旋状に叡智が、目に見えない叡智が身についていって徐々に長老になっていく。これがネイティブの方たちとか、日本の昔の方たちの考え方だと思うんですね。

化学肥料と農薬漬けで農業やっていると、収穫できたら、「今年の化学肥料がよかった」と思いがちになりませんか? つまり、大地のおかげであったり太陽のおかげであったりというのを忘れてしまう可能性が強い。

「そうするとどうなるか。」つながっているという感覚がなくなる、感謝の気持がなくなる、だから、祭りが観光になってしまう。
草を見たり虫を見たり、その中で叡智を身につけたはずなのに、身につかないですよね、平気で虫を殺していくわけですから、農薬に除草剤。で、収穫できても、「今年の化学肥料がよかった」と。感謝の感覚がなくなると、祭りはどうなるのか、魂が抜け、観光になる。本来の人間が身につけるはずの叡智が身につかない。

そうすると、らせん状に上昇していかないわけですよ、長老になるのではなく、イメージとして、平面をグルグル回って、年寄りになる、単なるシルバーになる。

で、今の日本社会の問題点、食の問題、医療の問題、農業の問題、そのすべての根底に、今言ったような、草を見ない、虫を見ない、そして人のつながりを感じないということがあると思うんですよ。

僕はエンターテインメントを生業としていて、映画を作ったりビデオを作ったり、あるいは、テレビのドラマを作ったりするんですけれども、本来の芸術・芸能の根本は、祭りから生まれたものというのがまずあるだろうと。その起源において。
そういうことを強く感じたのは、阪神大震災のあと、3月6日、サントリーホールでチャリティーコンサートをしました。その過程においてです。

1995.1.17.震災から
それは、震災2日後に、うちの当時6歳だった息子が膝の上に乗って、「パパ地震あったのどこだっけ?」という会話からなんですね。「いや、神戸だよ」って言ったら、「じゃあ、毛布送ろうよ」って、2日後だからまだどこに送るか分からないから、「え?どこに送るか分かんないよ」っていう話をしたら、息子が、「じゃあテント送ろうよ」と。「テント買うのかよ」って、もう親としてはうれしいんだけど、意地悪をしてね、「テント買うのかよ」っていう話をしたんですね。そしたら、「じゃあ食糧送ろうよ」という話になって、その2分間ぐらいの会話で僕は変わったわけです、じゃあ何かしようと。息子と一緒に何かしようと。

でも、息子は6歳ですね、僕はもうちょっとだけ年上ですよね。<笑)それなりのネットワークも持っている、それで何かできないか、っていうので4つぐらいのことをしたんですけれども。その時に、まぁいちばん派手なのが、サントリーホールでのチャリティーコンサート。子供とのこの短い会話がなければ、チャリティーをどこかで偽善的なこととみなす感覚から抜けきれなかったかもしれません。

サントリーホールというのは、当時クラシックのいいホールって少ないてすから1年先まで普通は満杯なんですよ。でも、偶然3月6日空いていて、3月6日というのは、仏教関係者に言わすと弥勒(36)の日だと。さらに、その日が震災の四十九日目だったんですよね。だから、日本中のお寺で鎮魂の鐘が正午に鳴った日の夜。

で、僕が声をかけたのは、歌舞伎の團十郎さん、團十郎さんから橋之助さん、松助さん、それから、バイオリンの海野さん、パイプオルガンの井上圭子さん、フルートの神崎愛さん、それとソプラノの中村邦子さん。それだけにしか声をかけなかったんですけれども。全員その日、あいてたんです。

その時にいちばん僕が思ったのは、何のためにやるか。チャリティーでお金を集めたいからやるのじゃないのは当然。もちろん、皆さんのお力で600万円ぐらいのチャリティーはさせていただいたけれども、それだけが目的じゃなくて。なんて言うのか、震災によって150万人、200万人という人が精神的障害を負った。それを感じたときに、それを癒せることは何なのかという問いかけ。

もちろんカウンセラーの問題とかその前のロサンゼルスの震災のあとの情報とかも来ますから、カウンセラーも必要だ。でも、本来、こういう時に、精神を癒せるのは芸術なんじゃないか、音楽なんじゃないか。

そういう思いがすごく強くなって、日本中のマスメディアが後援や主催しているコンサートってたくさんあるわけですから、被災者の方を10人でも5人でも招待する。そういうことができないのかなと思って、まぁそのためのコミュニケーションをできるだけしたいなと思ったんです。

でも、その時強く感じたのが、日本の社会というのは、そういう芸術の精神的な作用というものに関してほとんど理解を示していない、あるいは、そういうことに無知な社会だという気がしたんですね。それがいわゆる、“祭”ということを考え始めた一つの大きなきっかけです。

エンターテインメントあるいは芸術・芸能にかかわる人間として、祭というのをもう1度考え直す必要がある。つまり、ソーシャルサポートとして、自然の季節というダイナミズムの中で、村人全員の精神状態を変える、そういうことを祭りがしていたんじゃないか。   つまり、祭りの空間というのは、ある意味ですごく精神が高揚する状態ですよね。その時っていうのは、ひょっとしたら病気がそれで治る人がいたかもしれない。あるいは、いろんな悩みが消えることがあったかもしれない。そういうことを自然の叡智の枠組みの中でやっていた。

その祭りが何かというと、村全体が芸術という言語以前のコミュニケーションによって人と人とがつながる、さらに、さっき言ったように、もし収穫の祭であれば、大地のおかげであり太陽のおかげであり、そして、隣人のおかげでありというすべてとつながっている、そういう意味の感謝というのを、感謝の魂を芸術にしていた。そういう一つ一つのことを考えると、祭りというのは、昔の人が作ったすごいものだなと。 そして、その魂を取り戻すことが、そういうことを感じることが、たぶん今の社会に対して、何か変えていける、「お金がいちばん大切だ」と思っている子どもたちが変わっていく。そして、祭りを生み出す社会というのは、根本的に何かを変えることが、可能になる社会なんじゃないかなと。僕はこの「祭りの魂の復活」ということの意味を強く感じています。

ある雑誌のインタビューの中で、祭りということを書きました。で、喜納さんを紹介したいという方がいらっしゃって、喜納さんとお会いする前に喜納さんにその文章を読んでいただいて、あれは、赤坂のホテルでしたね、喜納さんと最初にお会いして、“祭”ということで、意気投合して、「祭りをやろう」というような話になった。それが、今日ここで対談するきっかけというか、もともとの話です。

まず、喜納さんに、「祭」について、喜納さんは、もう僕なんかが祭りを考えるずっと以前から祭りという事を考えられているんですよね。その辺のお話をしていただければと思うんですけど。

喜納< よろしくお願いします。震災後すぐに神戸に行きました。ある人が、「喜納さんぜひ来てください」といって下さったんですよ。私も、とにかく現地に行きたいと思ってましたしね。私が飛んだのが1月28日です。ちょうどボランティアがワーッと集まって来た頃で、ボランティア精神というものが試されていた時期だと思うんです。自分たちのやっていることが、実際本当に、これだけ痛ましい魂に対して届いているのかという、自問自答を起こしている時期だったんじゃないかと思うんですね。何をしていいか分からない。何を持っていけばいいのか、そのことはほんとに命につながるものなのかとかね、何をすることが本当に役に立てることなのかがまだわからなかったと思うんです。非常に貴重な瞬間だったと思うんですね。

神戸へは私とエイサーメンバーと2人で行ったんですよ。私は三線をもって『花』を歌い、エイサーという沖縄の太鼓を持って踊る慰霊の踊りを踊りました。地元の方々とボランティアの方々の中で、まだ意志の疎通ができていなかったんだと思うんですが、ボランティアの方々に、「どうすればいいのか」と聞くと、黙ってしまうんですね。太鼓を鳴らすと地震を思い出して、神戸の方々がショックするのではないか、だから太鼓を打たないほうがいいのではないかとかね、いろんな意見が出てくるんですね。一緒に悲しむべきなのか、それとも喜びを分かち合うべきなのか、あれほどの痛ましい情況に立たされたときに、ボランティアの方々もまだ、感情を決めきれなかったのです。しかしあるおじいちゃんが「ぜひ皆さんの前で、歌ってください、踊ってください」と言って下さったんです。私はあの時、なんと言うんでしょうか、招かれたというと変ですけど、そういう気がしました。あの当時はまだ、瓦れきの下に埋もれたままの命もあったと思うんです。そういう方々の魂を、本当に私たちの歌や踊りによって供養することができるんだろうかということがテーマでした。
あるいは、供養ができなくても、せめて共に旅ができるだろうかという想いがありました。そういうことを想いながら、歌をうたって踊ってきたんです。

阪神大震災の震源地は淡路島で神戸も甚大な被害を受けました。それはひとつのメッセージとして受け止めるべきではないかと思っているんです。神戸とは「神の戸びら」と書きますね。そして震源地の淡路島といえば、イザナギ、イザナミが杖を振った日本創世神話のある島ですよね。大地がひっくり返ったり大津波が来たりということは、創世の時代にはいつもあったことなんです。
今回の大震災をその視点で捉えたときに、なぜ日本の中でもいちばん近代的な所に、神話的にいえばイザナギ・イザナミの杖が入ったのだろうかという私の疑問があるんです。

震災のあとには、不思議な感覚をみんなが共有していたと思うんです。権力と言うと変ですが、豊かさや社会のシステムの中に乗っかっている人たちは、特にこの不思議な感覚を知らないと思うんです。今の社会の中では、ほとんどの人がお互いに役割分担で動いています。駅で例えれば、車掌さんは車掌さんの仕事、切符を切る人は切るだけというような感じで、時間がレイアウトされて、その時間がある一つの利権というところに全部集約されていきます。

しかし神戸では街が崩壊したときに、その利権構造というか役割分担が全部崩壊したんですね。だから人と人の距離がなくなった。その人が車掌さんであろうが警察であろうが、みんな裸になっているんですね。時間が裸になっているんです。時間が命に帰って、人々の命が直結したんですよね。私はそのことを見たときに、もしかすると日本はここから再生できるのではないかと思ったんです
98年の8月8日には、「神戸からの祈り」ということで祭りもやりました。八・八のヒラキという意味を込めているんです。1988年8月8日に八ヶ岳で「いのちの祭り」というのをやったんですが、主催者も関係者もまったく違う人々ですが、私の中で意味的にはそれに連なるんです。八ヶ岳にはイワナガトヒメが奉られているんです。イワナガトヒメって聞いた事がありますか。

日本の神話の中で、ちょうど高天原からニニギニミコトが降りてきたときにね、オオヤマヅミノカミの娘さんと結婚するんですね。イワナガトヒメは、言い方変だけど美人ではないけど、妻にすると生命力がついて長生きするという。コノハナサクヤ姫は美人ではあるけれど薄命なんです。それでこの2人と結婚すると、ちょうどうまくいきますという意味を持っている。

この神話は、私にとって大きい意味があるんです。イワナガトヒメは縄文を表していて、コノハナサクヤヒメは弥生を表しているんですよ。この2つをまとめるということが大事で、そうなったとき、日本は非常にたくましく、そして美しく永遠性を持った国になるんだという象徴なんですね。そのことを実は70年代の後半から考えていて、仲間たちと相談して八ヶ岳で祭りを開催することになるんです。それが「いのちの祭り」でした。1988年8月8日、ワッハッハーという“祭”という形でね、ぶつけたんですね。

まぁしかし、いろんなゴタゴタがあってバラバラになっていくんですけどね。それから、富士山でコノハナサクヤヒメの祭をしたりもしました。だけれども、どうしてもつながらないんです。その視点から物事を見たときに、あ「神戸=神の戸」かと。なるほどと思ったんですよ。もう1度、その精神の創世のロードを通って行くことになったんだなーと。そうして通りながら、柳瀬さんと会って、「時間をはずした日」と出会ったんです。

時間をはずした日の祭り
沖縄ももともと太陰暦ですが、日本も昔はそうでしょ。どこでもそうだったと思うんですよ。月の運行にあわせて、そのリズムで生活をしていたんですよね。そして、いちばんうれしいことは、「時間のない日」という、これがすごいなぁと。

われわれの永遠の時間というものは文明によって全部縛られてしまって、無機的な時間になってしまったんですね。無機的な時間ということは、そこから生まれる生命もすべて無機的に完成されていくんです。文明も同じことです。そして、その無機的なものの結晶はガン細胞になってしまいます。しかし「時間をはずした日」という考え方は、無機的な文明の時間の流れがすっと開くことですから、それは永遠の世界へと顔を出すということなんだと思うのです。

柳瀬>(観客の方に)わかりにくい人がいるかもしれないんですけど、この「コズミック・ダイアリー」の13の月の暦だと、28日で13ヵ月で364日なんですよ。最後の1日、その日を、「時間をはずした日」という言い方をして、つまり、らせん状に次元を変換していくためのそういう日というのを、その日を、「時間をはずした日」という言い方で、曜日にも月にも属さない日をつくっています。で、祭りをやるんだったらその「時間をはずした日」にやろうと。

つまり、精神が高揚している状態、そのときっていうのは、三次元にとらわれた時間をもう解放しているんじゃないかと、祭りをやるんだったら、「時間をはずした日」に祭りをやろうと。(呼びかけた。)

喜納> いろんな表現ができると思うんです。神様と出会おうとかね、自分たちが永遠に溶けていく場所とか、永遠あるいは無限と呼吸をする瞬間であるとかね。ある意味では、帳尻を合わすということですよね。

その帳尻とは何かというと「神み合わせ」ですね、神とあう、あわせる。いろんな解釈ができる。私は時間帯という空間だと思います。時間と空間。私は何十年間も、「祭、祭、祭」といってきました。祭りとは、「ま(間)を(釣)つる」ということなんです。間を釣り上げると、人間と人間の間が無くなる。人と人だけではなく、すべてのものの間を釣ることで、すべてのものとひとつになるんですよ。そういうようないろんなことを考えていました。

現状に目をつぶって、祭り、祭りではなく、今ある情況を把握して、その上でネガティブ要素や暴力的な精神を完璧に吹きとばすくらいの祭りを起こさなければ、もう戦争には勝てないと思っているんです。私はこの20年あまり、ずっと日本中を旅して、仏教の世界から神社の世界、そして世界中を旅して、イスラエル、インド、中国も行って、その魂に触れてきたという感じなんです。
日本は、どの国の物まねでもない「日本の時代」を持たなくちゃいけないんです。もう十分に東洋も西洋も経験した。「日本の時代」を謳歌するためには、もっともっと日本自身を掘り下げなければならない。そうすることによって、日本をステージに東洋と西洋を融合して、地球規模のスピリットの融合を起こし、地球はひとつ、人類はひとつであるという、可能性を出せると思っています。

日本人そのものの中に、祭りが文化としてある。これはすごいことなんです。人間の精神が進化するときに、祭りが非常に重要な役割を果たします。参加した人の心が裸になり、自然と循環することが出来る媒体なんです。自然とよんでもいい、神と呼んでもいい、永遠と呼んでもいい、祭りではお互いが持っている力をそこに出しあうことが出来るんです。

祭りというのはスピリットの溶鉱炉です。そこで醗酵が行われたあとは、それがまたみんなに広がっていくんです。でも今よく行われている祭りは、どこかで根っこを切られてしまっているんです。だから、本当に祭りを取り戻そうとするならば、地球的な規模で、人類的な規模で、文明がどこで大地や天と切れてしまったのかということを探究しなければなりません。でも、みんなは大地を無視して、まずは天に昇ろう昇ろうとするから、逆に昇れないんです。誤った方向に進んでいる文明が、地球規模、人類規模で根っこを下ろすことができれば、天は自然に降りてくる。それが「天と地が交わるところそれは祭りである」という意味なんです。

柳瀬< 今の話を受けて、7月25日、時間をはずした日にどういうことをしようとしているかという話をしたいと思うんですけど。
アーティストの中には、もう喜納さんはお祭そのものだと思うですけども、それぞれのアーティストは、芸術ということをやる中で、祭りのための魂を持っているんですよね。だから、そういう人たちに声をかけて、祭をしようと。つまり、10人集められる人は10人でいい、100人集めれる人は100人でいい、1000人集めれる人は1000人集めればいい、ともかく、祭りの濃厚な空間を純粋にもういっぺん作ってみようという呼びかけを今しているんです。

多くの人に、出会う人ごとに声を掛けています。今ざっと言うと、もう50人以上は、「やる」と言ってます。有名な方、有名でない方。さっきCDが流れていたミネハハという歌手もやります。それから、宮下富実夫さんもやります。それから、喜多郎さんは社長が賛同してくれているんで、南米でたぶんやると思います。喜多郎さんとはまだ直接話をしていないんで。

10人集める人は10人やる、できるだけ多く細胞のように増殖していって、できれば3年間やりたいと思っているんです。で、1年1年増殖していって、3年後には2001年、21世紀の最初の年には、“2000年の時間をはずす”という意味を込めて、本当に今おっしゃっていた、ある意味では、土、大地に根ざすことなのか、あるいは祭の魂を取り戻して人々がつながることができるのかどうなのか。

だから、声を掛け合って、10人、100人のグループでいいから、どんどんどんどんその濃厚な空間をつくる。ただ、それを情報として頂いて、やる方には、こんなに世界中でやっているというのをフィードバックしたいと思うんです。アーティストたちが、自分のところだけじゃなくて、いろんな方たちがやっているということを知ることによって意識でつながっていける、そういうことを今考えています。

具体的には、3月の頭には、ホゼ・アグエイアス、13の月の暦を作った人から、「来い、来い」って言われていて、時間はずした日の祭りのコンセプトを世界にアピールしてほしいというので、3月には行きます。3月の7日、喜納さんが祭をなさる日に、アメリカのポートランドで世界会議が開かれていて、そこでアピールしてきて世界中に広めていきたいし、きょうの対談も含めて、できればそういう思いを持った人たちへ、メッセージをギリギリまで伝えていくという、そういうコミュニケーションを、7月25日までにできるだけやっていきたい。

もしそういうイベントが20なり30なり、本当は、僕は一応100以上日本でやろうと思っていますけれども。ともかく、どうやってそういう祭の魂をみんなで取り戻す、その祭の魂が大切だと思う人たちが、自分でできる、自分の友達に声掛けて一緒にやる、そういう動きをすることによって人の意識というのを変えていけるんじゃないか。

いろんな人がね、大変な時期で、意識変革が必要だって、言っているじゃないですか。「じゃあどうやって意識変革するんですか」って聞いて、答えはまったく今まで出てきてないんですよね。だから、エンターテインメントに携わっていて、何年か生きている中で、“祭”ということを考えたときに、“祭”にその可能性があるんじゃないか。

そして、アーティストは音楽でコミュニケーションしているから、そういう意識を持ったら、感じたら、観客も、祭りというコミュニケーションの中で何かを感じ始めるかもしれない、それを広げていくことが可能であれば、本当に、自然の草とか木とかその息吹、そのリズムというのを日本人全体が感じ始めることできるんじゃないかというふうに考えて3年間やっていきたい。

12月でしたか、九州に講演に行く前に新聞で読んで、すぐ講演に使ったお話しなんですけれども、「小中学生の3分の1が、朝日、夕日をほとんど見たことがない」という記事が朝日新聞に出ていたのをご存じですか?朝日、夕日をほとんど見たことがない小中学生が3分の1いる。

僕は夕日を見て感動して生きてきました。でも、見ていない人は感じないわけですよね。それはうそでしょう、と言いたくなるぐらいとんでもないことだと思うんですけれども、でも、さっき言ったように、じゃあ、「今、満月見ていますか」って聞いたときに、「満月を見てます」ってこたえることができましたか?つまり、126年前の日本人は月と共に生きていましたから、万葉集の時代から月を見て生きてきたわけてすよ。

月の引力によって海の生命が卵を生んだりとか、干潮満潮があるということを。あるいは、アメリカ大陸でさえ16センチ満月の日に浮き上がるという、そういうことをやっぱし感じると思うんですよね、月を見て。だからそれは理屈じゃなくて、何か感じるから詩を書いた。別に風流で詩を書いたんじゃないと思うんです。それが生きるということだと思うんですよ。だから、月見、雪見、花見をした日本人というのは、そういう生き方をしていたんだと思うんです。だから、そういう生き方を戻す。

もっとダイナミックに、本当に祭りというものがそういうリズムを作っていたんであれば、その祭りを復活させたい。それは、祭の魂を持っているアーティストたちがそういう空間をつくるということ。それを通して、今まであった日本人の祭りというものがもう一度魂を取り戻す可能性が、つまり、「時間をはずした日の祭り」に参加した人々が、いままでの祭りにも参加するわけですから、祭りが変わっていくかもしれないと思いませんか。で、祭りが変われば当然生活が変わりますよ。祭りの時と場所を選ぶということをやり始めれば、当然日常生活も変わるし、祭りでこう何かを神様に捧げる、コメ一つ取っても、農薬づけのコメをなんで神様に捧げなきゃいけないのか、そして、その意識が農薬づけのお米をどうして出荷して人に食わさなきゃいけないのかと感じ始めると思うんですよね。

そういうあたりまえに生きるということ、夕日さえ見なくなった小中学生がいる。子どもに対してやっぱり責任があると、親が責任があると思うなら、子どもと夕日を見る、月を見る、そして感じる。そういったことの一つの大きな、大きな社会的なソーシャル・サポートとしてあるものが祭りだったわけですよね。

その祭の魂をとりあえず7月25日、“時間をはずした日”に、若い人で祭なんか知らない人でも、音楽をやっている人だと、音楽の興奮の中にある何かというのは当然通じているわけだから、“時間をはずした日”に時間をはずす、三次元にとらわれた時間とは違う精神が高揚するものを一緒に作る。喜納さんの『花』っていう曲を聞くだけでやっぱり精神が変わる。そして喜納さんのエネルギーで、この間の鎌倉の時も、1000人近くの人間が踊りまくっていたわけですけれども、もうそれは祭りですよね。そういう生命の祭りというのを、そのことを時間をはずした日にやっていきたいなと。

祭りの魂
柳瀬< 日本人って、お正月、初詣の時って1つの神社に何十万人も行くじゃないですか。すごいことだと思うんですよね。でも、ちょっと上から見たら、みんな自分のお願いごとばっかりしてるじゃないですか。(笑い)商売繁盛、家内安全、それはちょっと、「上から見たらこっけいかも知れないな」というぐらいは感じるでしょ。でも、今さっきいった地球環境ということを考えざるを得ない時代、子どもが、アトピーになっているっていうことからでも、農業の問題とか世界の食糧問題とかを感じはじめて、それが「地球を意識する」ということだと思うんです。が、そうせざるを得ない状況、つまり自分の幸せのために地球のことを考えざるを得ないというのが、地球環境の問題が世界の人々を一つにする可能性があるということなんですけれど、そういう時に、ひょっとしたら自分だけの願いごとが、地球のための祈りに変わる可能性があるわけですよね。

7月25日っていうのは、大阪では“天神祭”っていうのがあるんですね。で、たまたま実家で、きょう実家にあった本なんですよ。で、これも縁かなと思って読んでたら、天神祭ってのはやっぱりすごい祭りですね。日本三大祭のひとつで 130万人が集まり、しかもほとんど他県からあまり来ないらしいんですよ。ほかの祭りというのは他県から観光にくるのに、そうじゃない祭りらしいんですよね。で、夜はもちろん全部お神楽、お神楽っていうのは「神が楽しむ」という、そういうことを基本になされているものですよね。だから、天神祭の人たちにもアプローチしようとは思ってました。別に天神祭りを時間をはずした日にしろなんて、そんなことではない。そうじゃなくて、そういうエネルギーが生まれてる日、だから天神祭の人にも「その日、世界中でこういうふうになってるよ」時間をはずした日というのも意識する人が一人でもいれば、天神祭り自体がエネルギーが大きくなる。

要は人間の意識が高まる、村全体あるいは国全体、世界全体が高まる、そういうことを試みたい。

喜納< 今回の祭をやるにあたっては、本当に「時間をはずせる魂」を集めることが出来るかがカギですよ。7月25日にいろんな土地で祭りをやるとするでしょ。でもそれは、時間の枠内でやってるだけかも知れない。本当に今の「文明の時間」というものの枠のオリを、外せるスピリットを持ってる人たちがいるかいないかというのは、非常に重要なテーマです。この祭りを地球規模、人類規模、どこまでもって行くことができるか。3年間というのは、ひとつの雛形を作る発酵期間だと思いますよ。

いつも私は考えるんですけど、人類というのはガン細胞と同じなんです。ガン細胞は、健康的な体を蝕んで食べて食べて、体が死ぬと一緒に死んでいく。これは今の人類の姿と同じですね。健康であったはずの地球を食いつぶして汚染して、ここまで来てしまった。ガン細胞は、コバルト(放射能)放射で治しますよね。自らの文明の歪みを人類は原爆という放射能で治そうとしてるのかなー、とも思うんです(笑)。だけど、ちょっと待てよ、自然治癒もあるでしょうと私はいいたい。

人間の生命量が、地球の生命を逸脱してしまった。人間が完全にその他の地球の生命を逸脱して、共食いの時期にきているんです。共食いというのは人間を食べるという意味ではなく、弱いものの犠牲を生み出さなければ、生きていけない状態まで、地球も人類もきてしまっているという意味です。それは弱肉強食や自然淘汰というレベルの問題ではないほどに、人類が暴走しています。ガン細胞を見ればわかるように、「共生」というところから切れた壊れた細胞は、生命を食って生きるしかない。

その暴走を越えるためには、人類のおぞましい無意識から飛び出した人間だけが参加する祭りにするのか、それともより多くの人たちに気づきを与えて一緒につれていく祭りにするのかというテーマを話さなければいけないと思います。

自分たちだけが助かるというレベルでは、新興宗教やオカルトがやっています。そこに留まっていては、意味がない。出来ることなら人類すべてが光を見ることが出来る祭りが起こった方がいい。その想いが大切なんです。それくらいの規模の覚醒でないと、もう間に合わないところまで来ているように思います。

柳瀬< いや、まったく、そのための祭りであること。だから、コミュニケーションということ自体が問われているのだと思います。
環境のことをやっていると、よく地球物理学者と話をしていると、人類が絶滅することなんてたいしたことじゃないんですよね、地球の歴史から考えると。昔のいわゆる恐竜たちが絶滅した、あれは惑星衝突が原因だと一応考えられていますけど、それによってあんなに変わるわけですよね。だから、「人類が絶滅したって、地球にとってはたいしたことじゃないのかもしれない」というふうに、客観的にほんとに歴史をみると、そうかもしれない。でも、やっぱりこの地上に生きていて、人間として生きていてやっぱり感じるのは、周りの人が亡くなったら「悲しい」という思いを持つし、それを感じる中で生きている人たち、当然、人類だけじゃなくてほかの生命も含めてですけども、いい形でともに生きる形っていうのは考えたいと思うわけで。それは家族、子どもを持ったらやっぱり子どもがちゃんと成長してほしいと思うのと同じように、実際生きてる中で、学者から言うとですよ、「人類が増えすぎている」とかそんなこともあるかもしれないし、そういうことも、「天変地異の理由もそういうことだ」みたいな、あるいは「戦争を起こすのもそういうことだ」みたいなことを考えている学者もいるかもしれないですよ。

でもやっぱり、コミュニケーションをなりわいとしている人間として、それは、いいコミュニケーションが成立することが可能ならば、そういうことは避けれるんじゃないか。それは本当にわずかな可能性であっても、避けれる可能性があるんだったらそれに向けてやっていきたい。で、「それは、理屈でそういうことを言うだけじゃだめだ」ということを、最近強く感じるんですね。

環境をテーマにした万博というのが2005年にあるけれども、森をつぶしてやろうとしているわけなんですよね。やっぱりそれは、木を感じてない人間の発想だと思うんです。木を感じていない人間、口で「環境」っていろんな企業が言ってますけれども、でも平気で森をお金のためにつぶしてしまう。だからそれはすべての人のリズムがそういうふうになっているから、その人が悪いんじゃなくて、さっきからお話ししているように、なんか生命のリズムを感じないように、感じないようにしてきたものがあると思うんですね。

(質問)仕組まれている….。

うん、だからそれは善意か悪意か分からないんですけど、カレンダー1つとってもそうだし。だから自然のリズムをダイナミックに取り戻す、実は祭りがそうだったかもしれないという中で、祭りをもう一回活性化したいなと。

喜納< 生命は誰だって欲しいんです。人類はいつだって永遠の生命を求めてきました。宗教も永遠の生命を教えてきました。森を伐った時、人は生き生きとしているんです。それは木を切ったあとに木の生命が吹き出してくるからです。一瞬にして木の生命をもらうことが出来るんです。人を殺すときもそうです。戦争は、自分が生きる生命力を高めるために簡単な方法なんです。

簡単に生命をあやめるのは自己生産できない人間たちです。自己生産できる人々は、他の生命を殺さない。今の文明のリーダー達は、自己生産をしません。経済も政治も文化もすべて自己生産をしない方向に文明を持っていってしまいました。環境破壊もその結果として現れていますよね。私たちは壊してしまった自然を守るのではなく、もう一歩進んで自然の生命を再生していく方向に向かわなければ、もう間に合わないところまできているんです。今の最先端の科学は、全力を挙げて自然の再生に取り組むべきですよ。

祭りを興すのでも、命を懸けた祭りを起こさなければならない。なにに命を懸けるかというと、神さまにかけるんです。神、自然、宇宙、存在、なんと呼んでもいい。植物連鎖の中でも人間は頂点を極めています。じゃー人間は誰が食べるんですか?神さまが食べるはずです。人間は食べられる物体を持っていないから、心を食べさせるんですよ。精神的な活動を高い次元に持っていって宇宙にばらまいて、神さまに食べてもらいましょう。

人間が他のすべての生命を食べているのに、人間は誰からも食べられなかったら、循環が起こらないんですよ。もう一度、祭りによって人間の精神を大自然に返すということをしなければならない。

柳瀬< 「思いを持ったら実現する」っていうじゃないですか。この「思い」というのは精神的なものですよね。で、それが形になって実現していくということは重要なことだと思うんですけれども、人間の行いとして。で、さっきちょっと断片的に言いましたけど、祭りというのはそういう、精神的なものと現象界を、本当に循環させているんだと思うんです。

喜納< やはり祭りはダイナミックであって欲しい。都会にいる人は情報に溺れていて、情報によって魂が分断されているから、ちょっとエネルギーを与える程度では反応できなくなっているんです。オーバーホールしないと使えない魂なんです。いくらエネルギーを持っていてもすぐになくなってしまう。それはなぜかというと、部分部分で役割を果たすようになっているでしょ。マンモス都市機能ですべてが分割されているんです。いつも「猿も木から下りる」ということを言っているんです。今の「社会」という木から降りるような魂が必要なんです。この木にしがみついている人たちに、降りてもいいんだよという気づきを与える祭りを起こさなければならないですね。今の神道の神社が中心になっている祭りがあるでしょ、そこに何万人・何千万人の人が行きます。そしてその無意識に集まったエネルギーはどこに行くかというと、日本では天皇制に集結されて行く。仏教もそう。それでは天皇制はその日本人の魂を日本のために使っていたかというと、そうではない。

日本の断層の中に、アメリカに戦争で負けた傷が疼いていて、それがどこに向かうというと、新ガイドラインの問題がでているように、武器を買ったり道具を買ったり、戦争の支援をするようになってしまっている。みなさんが働いて作りだしたエネルギーが、どこに行くかというと、戦争に向かっているんです。無意識でいたとしても、地球を破壊するための細胞として動いていってしまっている。

それをわかって、どこかで「おかしい」と思ったならば、「絶対地球を破壊してはいけない、戦争を回避する方向に向けて行くんだ」という前向きな心と精神力を持ち続けなければならない。どこかであきらめてしまったら、いつの間にかその集まったエネルギーが原爆を作ったり、破壊の方向に向かっていってしまいます。その破壊のエネルギー以上に、覚醒していく視点を持たなければならない。もし祭りをおこすならば、1億何千万人の日本人の魂がひとつになるような祭りを起こさなければならない。

喜納さんは、コンサートの後、この対談に駆けつけてくれたのですが、風邪のせいで歌手生活30年、コンサートで初めて声がでなかった。喜納さんはこの対談の後の打ち上げの席で、声にならない声で、「すべての人の心に花を」を自らの意志で歌ってくれました。喜納さんの魂から絞り出された「花」の魂は、私たちの心にしみ込み、生涯忘れることができない感動の歌だったことを思い出します。

柳瀬 宏秀